水子の心は 穢れがなくきれいなのだということを
先日の供養祭にて視ました
写真のようなきれいな蒼い光の玉となり
上がって行った水子
言葉で表すのには限界も感じるほどにきれいでした
私たちは、水子がいても
生きている子供、生きている家族にばかり意識がいってしまうけれど
だからこそ、水子はいろいろな形で訴えを起こすしか方法がない
そうすることでしか、生きている母や兄弟にわかってもらえないから
さびしくて かなしくて仕方がないから
現象として、物事がうまくいかなかったり、体調にきてしまう
生きている家族もそうでない家族も
みんな家族
そう考えられるようになること
それが私たち生きているあいだの大事な学びなのです
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